昭和46年07月10日  月次祭



  ですから、本当の信心生活を出来ることのために、お互いが、精進しなければいけません。信心生活とは、嬉しい、楽しい、いわゆる、喜ばしい生活。そういう生活が、信心生活であります。信心はしておるけれども、信心生活になっておりません。拝んではおりまけれども、参ってはおりますけれども、信心生活になっていないところに、楽しさ、喜ばしさ、有難さというのがないのです。
  どうでしょうか、楽しい有り難い生活が出来ておるならば、皆さんは信心生活が出来ておられるんです。「昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しむ。」と、教祖は言うておられます。「昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しむ。」本当に明日が楽しい、明日はどういう有り難い一日をさせて頂くだろうかと思うただけでも、心が躍るような信心生活をして頂きたい。明日のことが心配でたまらん。もう明日どころか、来年のことが心配でたまらん。これが私は、世の人の、生活状態ではないだろうかと思うですね。
  子供を持っておれば、子供を持っておるで、財産を持っておれば、財産を持っておるでその子供が、明日はどうなるやら分からない。この財産が減らすまいと思や、そら様々な、手立てをするけれども手立てだけじゃ、完全じゃない証拠に折角の財産がなくなる。財産を持っておっても、良い子供を持っておっても、先のことが心配である不安である。そういう例えば、不安な日々の生活をさせて頂いておる人が、例えば信心の眼が開いて、「今、天地の開ける音を聞いて目を覚ませ」と仰るが。
 目が覚めたところから、過去の、例えば苦しいことがあっても、それは過去の一切を生かしていけれる。そういうことのおかげでということになり、今日が有り難く、明日が楽しいという生活に入らして頂く。私は本当に、そこを皆さんにいけんと思う、しみじみと。一生懸命の信心修行が出来ます。一生懸命お参りいたします。教えを頂きます。本気で行じます。そこから、ここの信心の喜びも、おかげも頂きます。ところが、さあ人間はそういう風に張り切ってばっかりはおられません。
  やっぱり、スランプの状態の時もあります。また、張り切ったゴムのように、ちょっと、こうしとっとるばっかりの様な訳に行きません。そうすると、そこにこの頃、ご無礼しておるから、この頃ご無礼しておるからというような気持が、不安の元になってくる。そこで安心のおかげを頂くためには、どうしても、一生懸命の信心修行が出来ない。から生まれて来る安心。なら、これも有り難い。けれども、私はね、いうならば、当たり前の人間の生活。きつい時には休まして貰う。眠い時には眠らしても貰う。
 余裕が出来て、遊びにでも行きたいところがあったら、遊びにもやらして頂く。そういう中にでも、私は安心しておれれる信心を頂きたいと思う。だからよく間違えるんですね、不信心な人が。毎日、日参り、夜参りしよる人の気持ちが分からん。私達は、月に何回しか参らんけれども、おかげ頂いておる。そして、安心しておりよる。だから今私が言うのは、その安心だとみておるけれども、そういう安心じゃない。そういう人達の場合はね、事、一旦何かが起こってくると、もう慌てております。
 それが本当の安心じゃないからです。けれども一生懸命の日々、信心修行させて頂いておる人達はです。それこそ、起きてくる事の一切が、一切合切を有り難しと受ける稽古を、日々やっておりますからそれが出来る。毎日日参り夜参りしよる者が分からん。信心ちゃそんなもんじゃない、こうして私段有り難く毎日過しよる、と言うておるような信心が欲しいけれども、そういう信心がです、本当の例えばそれは、安心ではない、神様を信じた信心生活ではないというところにです。
 ほんなら、ちょっと子供が帰りが遅かったら、もう不安でたまらん。ちょいと病気をすると、もうすぐ、医者、薬ち言わにゃん。お医者さんが、ちょっと首をひねらっしゃっると、自分まで首をひねってしまう。というような事ででは、これは安心とは言えないでしょう。けどそこんにきが、よく似ておるから分からんのですばい。自分の都合のよか時だけ参って。やっぱり心の中に、安らぎを頂いておるという人がある。
 日参り夜参りさせて頂いても不安。そこんところを、自分の信心の足りんものとして、一生懸命修行させて頂くところから、不安がなくなる。いや、不安がなくなるじゃない、どういう事が起こってきても、それを、どっこいと受ける。ままよと受ける心。これは日頃、信心修行をしよらなければ出来るこっじゃない。出来よる、そう出来よっても、やはり出来んような場合があるくらいでございます。
 ましてや、信心を自分の都合の良か時だけどんしよってからね、心の中に安心を頂いておる、おかげを頂いておる。なるほど、おかげを頂いておるでしょう。けれどもそこに、何かがちょっと起こってくると、もうイライラもやもやする。腹が立つ。ちょっと突発的なことでも起こってきたら、もう慌てて、さあ神様はどこにやらで、人だ、金だ物だというふうに頼ってしまう。いわゆる神を杖につかない。
  そこで、なかなか信心ちゃ難しいことになるですね。時々参って、安心頂いて、おかげを頂いておりゃ良かろうごとある。というて、ほんなら、一生懸命、心の限り神様へ心を向けて、信心修行をさせて貰う。そうしよらなければ、心が安心しては、安らいではおられない。信心が、段々有難さ分かってきて、例えばの話、どんなことが起こってまいりましても、それを元気で受けるとか、有り難く受けるというような受ける受け心が、修行しよっ時も出来ません。
 私共が、段々信心をさせて頂いて、本当の有難さというのは、全てが有り難いとして頂けれることなんですけれども、暑かっても有り難い、寒かっても有り難い。確かに、暑い事も寒い事も、天地の親神様のご恩恵だと分かる。雨が打たんでも、一通り話を聞きゃ、そうであることが分かるから、有り難い。ところが、暑い時には、もう茹だるようにあって、どうでもないような人でも、どうかあるようにきつい。寒い時には、その寒い時ことがおかげであることは分かっておるけれども。
 やはり縮こまってしまう凍えてしまうほどしに辛い。これが私は来ておる人達の暑いであり寒いであるのではなかろうか。縮こまるような思い凍えるような思い。それこそ暑さに茹だるような思いをしておったんでは、有り難いというものは出てまいりませんね。有り難いことなんかが分かっておっても。この夏があってこそ、この寒さがあってこそと、分かっておっても。だから私は信心とはそれからだと思うんです。
  それこそ、例えば、私共が日々、そら皆さんだって同じことですね。この炎天の中に様々な御用をなさる。農家の方達なんかは本当に、まあこれから、何ち言うですか、たかち言うですか、玉串ち言うですかね、あんなのは、もうなさいますね。大変な修行であろう、そらもう左官さんなんかは、あの、瓦の焼けた、あの焼けた瓦の上に上がって仕事をなさっておられる。
  一番暑い時は、一時は日よけをしておられるけれども、そればっかりは出来ない。それはどこにあっても、やっぱり修行がある。これは私共でも同じこと。暑い時は暑い時、寒い時は寒い時で、やはり凍えるような思いもする。または、茹だるような暑さ。例えば最近のように、もう段々暑うなってまいりますと、もう二時間三時間座っておりますと、本当に茹だるように暑くなる。汗はもうだらだら流れる。
  これではね、一つも、暑い事が有り難いとは思えない。早う涼しゅうなったらと思うようにある。ところが、そこにはね、助かりがないでしょう。そこで、そういう暑いなぁ、または寒いなと、あぁ苦しいことだなと思う心を神様へ向けていく。その向け方を、ここでは教えて頂く訳です。いうなら、心配する心で信心せいということになるのです。心を神様に、打ち向けさせて頂いて、じっと座らせて頂いておる。
  もう今年は特にですね、皆さん、こうやって、沢山こうして、お水を頂きますから、もう朝、御祈念終わる時には、汗じっくり。ですからもう、両方から信者さん達が、扇風機かけとってくださる。風が強い。皆さんも、涼しい中にあるけれども、汗だけは、だくだく。乾かす意味合いで、扇風機をちゃっと用意しとってくださる。それでもやっぱり暑い。まぁこれは、今の私ですけれども、あの椛目時代のことを思うてみますとです、あの西日の当たる頃の暑さね、この前のお広前に。
 全部座らせて頂いて、それこそ背中をつたう熱いような汗を背中に感じさせて頂きながら、前の方から、ありがた涙がほろほろ流れて来る。信心とはそれだと、私は思うんです。「背つたう汗の暑さよ、だるま行」なんていう私の句があります。もう熱いような汗を背中に感じる。けれども前からはありがた涙が流れて来る。後ろからは熱い様な汗が流れておる。その中にあってです、有り難いなぁというものが湧いてくる。
 私はだから、そこんところをやっぱり、人間生身を持っておるのですから、茹だるように暑くて、きついんです。そこんところを、神様へ心を、ちゃっと向けさせて頂いておるとです。心がそれこそ、どこから湧いてくるか分からんような心が湧いてくるのです。涼しくなるわけじゃない。風が起こるわけじゃない。けれども、それこそ、背中をつたっておる汗が熱いように感じるけれども、前からはありがた涙がこぼれるというような、私は、そういう信心体験というものがね、やはり必要だと思う。
 だから先ほど申しました。一生懸命日参り夜参りさせて頂いておる人を、月に何回かしか参らん人が、あげん日参り夜参りせんでんと向こうは言う。なるほどおかげは頂いてござる。本当に家庭円満のおかげを頂いてござる。けれどもそんなら本当な安心のおかげを頂いておるかち言うと、何かちょっとしたことが起こってくると、もう慌てよんなさるというとを見てから、信心させて頂いても、あれじゃぁね。あそこが信心一生懸命しとる者としとらん者との違いがあそこだと感じるわけです。
  一生懸命信心が出来ておる時にゃ、それこそどうしようかと言った様な事でも、一切合切が有り難く受けていくというような姿勢が出来ておる。片一方はもう慌て回って、さあ病気じゃ、いや医者じゃ薬じゃ、あっちこっち走り回って、そして、いかんけん、やっぱり結局は、お願いに来るといったようなところにしかなっていない。今日は、皆さんにね、信心生活とは楽しいもの。有り難いもの。
 もう明日が楽しゅうてたまらんという生活。そういう生活、そういうところまでをです、私共が、開かせて頂くためには、只今も申しました。暑かろうけれども、寒かろうけれども、苦しかろうけれども、神様に一心に打ち向けてお出でなさい、言いたいこともあろう。今日の朝の御祈念の後でした。久留米の久富クニカさんが、御神眼に頂いておられる。日田の綾部さんが、ここに座っておられる。
 その周囲に蚊がもう、それこそ、わんわん言うごと蚊が飛んでおるというところである。蚊が食いついておるわけじゃないけれども、蚊がいっぱいおる。そういうお知らせを頂いたとこう言われる。最近、綾部さんの所では、もう本当に最近、ここ特に2、3ヶ月間、もし信心がなかったなら、どうなるじゃろうかと思うような事が起きてくる、次々と。ようやく、やれやれと思うたら、その次の問題が起きておる。本当に信心がなかったならば、親先生がござらなかったならば。
 ここんところで間違うのだろうと思う様な問題が起きてくる。家庭的にお店の上に、自分自身の上に、もう自分の周囲、自分の身辺に、そういうことが起きてくる。信心させて頂いてなかったら、こういう時に、本当に間違うだろう。それが一つ一つ、それこそ見事なおかげになって行く訳です。ですから、また次の問題もですね、おかげ頂くじゃろうとは分かるけれども、やっぱり、その問題が問題だけに、やはり心配になる、不安である。いわゆる煩わしい問題が、自分の周囲にいっぱいなんだ。
 それこそ蚊がわんわん言うごとおるという様な状態であろう。ところがおかげで、いわゆるお取次を頂いて、親先生が右と仰るから、左と仰るから、その通りの事をさせて頂くという事からです。おかげで蚊に刺されるということはない。けれども煩わしいことである。そこで今日の、今一時の御祈念に参って来ておられますから、話したことでしたけれども。綾部さん本当に一つ、大きゅうなること以外にはなかばい。
 もうとにかく馬鹿と阿呆になる以外にはなかよ、蚊取り線香になるより他になかよとこう言うた。蚊取り線香は左巻き。もう左巻きになるより他にない。しかもそれに熱がついて煙が出ておる。そこで現在のところでは、もう蚊がブンブン言いよるけん、いつ食われるや分からんけん、油断も隙も出来んというようなところなんです。だからこれが、真ん中に、本当に大きな蚊取り線香がついたら、この煩わしい蚊が、みんな落ちてしまうだろうということなんだ。信心のおかげはそれなんだ。
 そういう煩わしい事をもって、愈々蚊取り線香にならせて頂く稽古を、愈々豊かに大きゅうならせて、馬鹿と阿呆というのは、私は大きゅうなることだと思うんです。心が豊かに大きゅうなることなんだ。ここで一言、言うたならと、いつも思うことがある。この人にはどうでんこうでん、いっちょ言うとかにゃといったような事もある。また実際腹の立つままに言おうと言うような事も、事件の中にはいくらでもある。
  今日も言われとったがね、それこそ、ちょうど昨日の御理解とそのままですねと言うて話したことでしたけれども。私が親切である方の御祈念しておることを、日田の有名な人達がです、綾部さんは、誰々さん方を乗っとってしまいござるという評判が立った。それを、私に言うて来てくれた。もう心外も心外でたまらん。そういうことを思われては困る人に、思われておる。だからここは一つ申し開きをしなきゃいくまいかと思う訳であります。私は申しました。
 言いなさんな言いなさんな。それこそ泥棒だと言われても、乞食じゃと言われても、腹を立てなと、今朝の御理解には頂いてある。さあ蚊取り線香になることぞ。そげなこと言いよりますかのち。人はどげなこっでん言う、人の口には戸は閉てられんのですから。まあ言う人には言わせとってくださいと、言うときゃいいのである。もう蚊取り線香にならなければおられない。そこにです、私は、煩わしい問題が、煩わしいその蚊がブンブン言いよるとかです、落ちてしまうほどしのおかげを頂く。
 そこからね、おかげは受けられる。だからね、その蚊がブンブンいいよる時にですね、蚊を追い散らかしたりね、叩いたりですよね、吹いたりしよったんじゃ、また寄って来るのですよ、蚊が。もうそれこそ、自分の周囲に、いっぱい集まっておる時に、もう絶好のチャンスですから。ここに一つ、本気で大きゅうならして貰う、本気で蚊取り線香にならして貰う。それこそ、言いたいけれども黙って生神金光大神様を唱えて、辛抱させて頂くという信心の稽古が出来ていく内にです。
 この煩わしい蚊は、みんな落ちてしまう。それからがね、それからが、今日私が言っておる、信心は、なるほど神様ちゃ恐れ入ってしまう。どんな詫びを言うことはいらん。色々慌てることやら、心配することはいらんいう心が生まれてくるから、問題が起きたら、この問題が解決した時には、先には神様がどういうおかげを下さるじゃろうかという楽しみが生まれてくるとですよ。それはもう楽しゅうて堪えんですよ。
 この難儀が、次にどういうおかげに進展して行くだろうかと思うたら、この難儀を大事にしなければおられないということになってくるでしょうが。私はそういう信心生活をね、目指して、お互いが信心しなければいけないと、今日は、しみじみ思わせて貰う。昨日を忘れ、今日を喜び、明日を楽しみ。なるほど言われてみる、言うてみれば、たったそれだけのことだけれども、なかなか忘れられない。
 なかなか今日が有り難くない。今日が喜べない。明日のことが楽しめない。それをです、今日、私が申しましたような、信心を辿らして頂きながら、稽古をさせて頂いておると、過去の一切も、あの人が、私に泥棒と言うた。その事すらも有り難いおかげになってくる。ここの辛抱は要るけれども、蚊取り線香にならして頂いて、大きゅうならして頂く。その大きゅうならせて頂いた範囲内に。
 おかげが大きゅう育ってきておる。さあここを辛抱さして頂いたら、次には明日明日はと言うことは「これから」と言う事ですね。これからこの事がどのようなおかげになっていくだろうかと思うただけでも心が躍る。楽しみであるそれには例えば暑い事も寒い事もおかげであると分からして頂くいうだけではなくて、本当に身を以て分からにゃいけない。背中をつたう汗は。それこそ熱いものを感じるほどしに。
 暑いのは暑い、茹だるごとあるけれども、そこを辛抱し抜かせて貰うと、そのことが有り難いことになってきて、ありがた涙がこぼれるようになるというのが信心です。だからそこからが信心だと。暑いのも有り難いとよ、寒いとも有り難いよと分かっただけではいけん。自分の身をもって、そこを体験していくところに、信心辛抱が求められる訳であります。
   どうぞ。